現代演劇における多様性、公平性、包摂性(DEI)の探求:ロンドン、NY、アヴィニヨンにおける実践と批評
導入:現代演劇におけるDEIの重要性
現代社会において、多様性(Diversity)、公平性(Equity)、包摂性(Inclusion)、通称DEIは、企業活動のみならず文化芸術の分野においても極めて重要なテーマとして認識されています。特に演劇は、その本質が人間と社会の探求にあることから、DEIの理念を具現化する強力なプラットフォームとしての役割が期待されています。ロンドン、ニューヨーク(NY)、そしてアヴィニヨンといった世界の主要な演劇都市では、DEIの原則に基づいた劇作、演出、キャスティング、観客アクセス、そして組織運営への取り組みが活発に行われています。
本稿では、現代演劇におけるDEIの概念を深く掘り下げ、それぞれの要素が舞台芸術の創造性、表現の幅、そして社会への影響にどのように貢献しているかを探ります。また、具体的な事例を挙げながら、ロンドン、NY、アヴィニヨンにおけるDEIの実践とその批評的な視点を提供し、演劇が社会変革の触媒として機能する可能性について考察します。
DEIの概念と演劇への適用
DEIは、それぞれ独立した概念でありながら相互に関連し合い、より公正で開かれた社会、そして芸術環境を構築するための指針となります。
- 多様性(Diversity): 人種、民族、性別、性的指向、年齢、身体能力、社会経済的背景、宗教、思想、そして芸術的スタイルなど、様々な属性を持つ人々が存在すること。演劇においては、舞台上の登場人物、俳優、クリエイターチーム、そして観客層において、この多様性が反映されている状態を指します。
- 公平性(Equity): 全ての個人が成功するための公正な機会を得られるようにすること。これは、画一的な待遇ではなく、個々のニーズや歴史的・構造的な不利益を考慮した上で、必要に応じて異なるサポートやリソースを提供することを含みます。演劇界においては、マイノリティグループのアーティストが機会を得にくい構造的障壁を取り除き、公正なアクセスを保障する取り組みが該当します。
- 包摂性(Inclusion): 全ての個人が歓迎され、尊重され、その声が聞かれ、帰属意識を感じられる環境を創出すること。単に多様な人々を集めるだけでなく、彼らが安心して自分らしさを発揮し、意思決定プロセスに参加できるような文化や制度を築くことが求められます。演劇においては、多様な観客が安心して劇場を訪れ、作品内容から疎外感を感じないような配慮、またクリエイターチーム内で多様な視点が尊重される制作環境の構築が重要です。
これらのDEIの原則は、劇作家による物語の選択、演出家によるテーマの解釈、キャスティングにおける公平な機会の提供、アクセシビリティの改善、そして劇場の運営方針に至るまで、演劇活動のあらゆる側面に影響を与えています。
ロンドン演劇におけるDEIの実践と課題
ロンドンは、その多文化主義的な都市特性を反映し、DEIの推進において世界をリードする演劇都市の一つです。ナショナル・シアターやロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)といった主要な劇場は、DEIを組織戦略の中核に据え、具体的な行動計画を策定しています。
主要劇場の取り組み事例
- ナショナル・シアター: 「National Theatre Black Plays Archive」のようなプラットフォームを通じて、黒人作家の作品とその歴史的意義を顕彰しています。また、制作チームの多様性を高めるためのプログラムや、アクセシビリティ向上のための音声ガイド、触覚モデル、字幕付き公演などを積極的に導入しています。
- ロイヤル・コート・シアター: 新進作家の発掘と育成に力を入れ、特に多様な背景を持つ作家の作品上演を奨励しています。社会的にタブー視されがちなテーマや、これまで舞台化されなかった視点を取り入れることで、演劇を通じた社会対話を促進しています。
- シェイクスピアズ・グローブ: 歴史的な建造物でありながら、現代の観客、特に若い世代や多様なコミュニティへのアプローチを強化しています。古典劇のキャスティングにおいて、多様な人種、性別の俳優を起用し、伝統的な解釈に現代的な視点をもたらす試みも頻繁に見られます。
批評的視点
ロンドンにおけるDEIの取り組みは進んでいますが、形式的な多様性の追求に留まり、真の公平性や包摂性が達成されていないという批判も存在します。例えば、キャスティングにおいて「ブラインド・キャスティング」(出演者の人種や性別を問わないキャスティング)が進む一方で、主要なクリエイティブポジション(劇作家、演出家、芸術監督)における多様性の欠如が指摘されることがあります。また、特定の文化グループの物語が消費的に扱われたり、ステレオタイプを強化したりするリスクも常に議論の対象となっています。
NY演劇におけるDEIの動向
ニューヨークはブロードウェイを筆頭に、オフ・ブロードウェイやオフ・オフ・ブロードウェイといった多様な演劇コミュニティを抱え、DEIに関する議論と実践が活発に行われています。特に、アメリカにおける公民権運動やLGBTQ+の権利運動の歴史が、演劇界のDEI推進に大きな影響を与えています。
ブロードウェイの変革
- マイノリティ作家の台頭: 『ハミルトン』のような歴史的な物語を多様な人種で演じる作品が大成功を収めたことは、ブロードウェイにおけるDEI推進の象徴となりました。近年では、黒人、アジア系、ラテン系などの作家による作品がトニー賞を受賞するなど、多様な声が舞台で響く機会が増加しています。
- 制作陣の多様化: 劇作家や演出家だけでなく、舞台デザイナー、振付師、音楽監督などのバックステージのクリエイティブチームにおいても、多様な人材の登用が進められています。これは、「見える多様性」だけでなく、構造的な公平性を目指す動きです。
- アクセシビリティの向上: 車椅子利用者のための座席確保、聴覚障害者向けの手話通訳やクローズド・キャプション(字幕)付き公演、視覚障害者向けのオーディオ・ディスクリプション(音声解説)など、様々なニーズに対応したアクセシビリティサービスが提供されています。
オフ・ブロードウェイ/オフ・オフ・ブロードウェイの役割
より実験的で革新的なオフ・ブロードウェイやオフ・オフ・ブロードウェイの劇場は、長年にわたりDEIの最前線で活動してきました。彼らは主流のブロードウェイよりも早くから、マイノリティコミュニティの物語、クィア演劇、フェミニスト演劇などを積極的に上演し、新しい才能を発掘する場となってきました。La MaMa E.T.C.のような劇場は、国際的かつ多様なアーティストの活動を支援し続けています。
批評的視点
NY演劇におけるDEIは目覚ましい進展を見せていますが、ブロードウェイの商業主義の中で、DEIのテーマがトレンドとして消費され、表面的なものに留まるという懸念も存在します。また、アクセシビリティの向上もまだ十分とは言えず、経済的な格差が観劇機会を奪うという問題も依然として残っています。真の包摂性を実現するためには、観客層の多様化を継続的に図ることが重要です。
アヴィニヨン演劇祭における国際性とDEI
アヴィニヨン演劇祭は、世界中から多様なアーティストと観客が集まる国際的な舞台芸術の祭典です。この特性は、DEIの理念と深く結びついています。
国際的な多様性の確保
- プログラムの多様性: 演劇祭のプログラムは、ヨーロッパ圏内にとどまらず、アフリカ、アジア、南米など世界各地の作品を招致し、異なる文化圏の視点や表現形式を紹介しています。これは、観客に多様な文化的背景を持つ芸術家との出会いを提供し、異文化理解を深める機会となります。
- 言語の壁を超える試み: 異なる言語で上演される作品に対しては、字幕や翻訳ツールが提供され、言語の壁が包摂性を阻害しないよう配慮されています。
- 社会問題への言及: 移民問題、植民地主義の遺産、ジェンダー、環境といった国際的な社会問題をテーマにした作品が多数上演され、演劇がグローバルな対話の場となることを示しています。
参加アーティストと観客の多様性
アヴィニヨン演劇祭は、公式プログラムだけでなく、「オフ」と呼ばれる並行プログラムも非常に大規模であり、無数の劇団が参加します。これにより、主流ではない表現や新進気鋭のアーティストにも発表の場が与えられ、演劇界全体の多様性に貢献しています。また、チケット価格の多様化や、若者向けの割引制度なども導入され、より幅広い層が演劇にアクセスできるよう工夫されています。
批評的視点
アヴィニヨン演劇祭は、その国際性と多様性において高く評価されていますが、一部には「西欧中心主義」的な視点が根強く残っているという批判や、フランス語圏以外の作品へのアクセスや理解がまだ不十分であるという指摘も存在します。また、芸術の質の確保とDEIの推進のバランス、特に若手や無名のアーティストが「オフ」プログラムで直面する経済的困難への対応も、今後の課題として挙げられます。
結論:演劇が拓くDEIの未来
現代演劇における多様性、公平性、包摂性(DEI)の追求は、単なる倫理的な要請に留まらず、演劇芸術そのものの豊かさと社会への影響力を増大させる上で不可欠な要素です。ロンドン、NY、アヴィニヨンといった世界の主要な演劇都市における取り組みは、DEIの理念がどのように舞台芸術の実践に統合され、新しい表現を生み出しているかを示しています。
もちろん、DEIの推進には常に課題が伴います。形式的な多様性の達成に満足せず、真の公平性と包摂性を組織の文化と構造に深く根付かせること、そして、それを継続的に評価し改善していく姿勢が求められます。演劇界が、これまで周縁に置かれてきた声に耳を傾け、彼らにプラットフォームを提供し、観客が多様な視点と出会う場となることで、社会全体のDEI推進に貢献できる可能性は計り知れません。
演劇は、対話を促し、共感を呼び起こし、固定観念を打ち破る力を持っています。DEIの原則に基づいた創造活動を通じて、現代演劇はより多くの人々にとって意味深く、関連性の高い芸術形式として、その社会的役割を拡大し続けることでしょう。